2015年11月12日木曜日

島根探訪♯3(後篇)_ 聖人たちの国




真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。
新しい目で見ることなのだ。

マルセル・プルースト


The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes,
but in having new eyes.

Marcel Proust



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「船乗りマツエ」

遊覧船はゆっくりとした速度で進んでいる。とき時、岸辺の岩の上で甲羅干しをする亀の姿が目に留まる。午後の日差しは強く、突き出した屋根の陰影が船先にくっきりと線を引いている。船頭が僕たちに声をかける度に船の屋根が前方に傾き、目の前の橋の下を潜るタイミングを知らせてくれる。座っていられないくらい屋根は傾くので、乗船している者たちの中には何人か船底に横になっている。橋の下を潜っているとき、ひやりとした空気が船内を流れる。暗闇の中で前方を睨んでいると、水面を照らす光りがこちらに近づいてきて一瞬のうちに光りの洪水になる。その度に、僕はチカチカする目を慣らす必要がある。そんな行動を何度かくり返しながら遊覧船はゆっくりとした速度で城下堀を巡ってゆく_ 昼間の眩しさに弱い僕は堪らず濃いサングラスをかけて、地上より低い位置から街の様子を仔細に眺める。岸辺に植わった名を持たない花が咲くのを目にする。軒先で洗濯物がはためき民家の中で人びとが閑かに暮らす息づかいを感じとる。僕は清風を頬に受けながらつかの間、タイムスリップして築城400年以上前の(江戸時代を生きた)町人たちの気持ちを味わう_ 松江城の城下堀を遊覧船で巡りながら、僕の『冒険』はいよいよクライマックスへと向かうことになる。その先で奇妙な場所に迷いこみ強烈な個性の持ち主たちに会敵するのも知らずに。「島根探訪♯3(後篇)_ 聖人たちの国」の始まりである。


船上で携帯電話にメッセージが入ったのは、僕たちが遊覧船に乗り込んですぐのことだ。送信者の名前を確かめると、ついさっきまで車の中で一緒だった担当S氏からだった。「船着場の受付で名前を名乗ってください。伝えていただければ判るようになっています」_ 城下堀を巡ったあとすぐに指定された場所へと向かい、云われた通り自分の名前を受付の女性に伝えるとA4サイズくらいの茶封筒を手渡された。早速、開けて中身を引っ張り出してみると「都会から移住希望の者たち」という見出しが付けられた地元新聞のコピーが一枚入っており、よく見ると「『冒険』奇譚(前篇)」で僕たちが訪れた出雲市は佐田地域での「『田舎』暮らし体験」の様子が新聞の一面記事のトップニュースとして大きく紙面を割いていた。記事の写真は中山間地域に点在する空き家を見学している僕たちの姿が写っていた。記事によればこのツアーを企画した団体のことが書かれており、文末には僕の実名と年齢と職業の他にその場に相応しいコメント(本当にそう答えたのかよく覚えていない)が載っていた。おまけに僕の職業は「イラストレーター」と話が変わっていた_ 昼食をとっている間も僕はその記事をゆっくりと読み返していたのだけれど、その度に不思議な気持ちになることになった。そしてこう思った「メディアから遠ざかろうとすればするほどメディアが近づいてくる。これじゃあ、まるでカフカの小説みたいだ。」と_


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「石光りミホノセキ」

松江城下の堀川巡りを愉しんだ僕たちは、タクシーで松江駅まで移動して簡単に昼食を済ました。その日の午後は松江市の「ふるさと定住財団」担当N氏と面会の約束をしていた。「『冒険』奇譚(後篇)」の最初の目的は実は松江市が水面下で準備を進めてきたあるプロジェクトの話を訊くことだった。話は二ヶ月前に遡るのだけれど七月に一度、僕が島根を再訪したあとすぐに東京の日本橋にある「にほんばし島根館」に足を運んでそこでM氏というやり手の担当者にお会いしたのがきっかけだった。その席で僕は「東京と島根を行き来する『Zターン(往来型)』の移住計画を考えている。」と相談を持ちかけた。その話と僕の経歴を知った担当M氏から後日、「一度、松江市のプロジェクトについて話を訊いてやってくれませんか。」と声をかけてもらった。その頃、僕はちょうど「『冒険』奇譚(前・中篇)」の手配を組んでいたので、どうせならばということで今回滞在を延長して面会の時間を設けてもらったのだけれど担当N氏(・他)と妻と義妹は以前に島根を訪れた際に何度か会っていた様子で思いがけない再会を果たすことになった。面会場所は駅前に隣接する定住財団の事務所で行われた。内容はわかりやすく云うと、「松江市の街おこしを担う、次代のメンバーを募集する」というものだった(この松江市の「Hプロジェクト(仮称)」については、ブログの最後に<後日附記>で詳細を記しておきます)。


和やかなムードの中で面会も無事に終わり、その後僕たちは担当N氏が運転する車で全国的にも有名な某書店を案内していただいた。担当N氏と姉妹が書店で店主と挨拶を交わしている中、僕は独り店の外に出てぼんやりと考え事をしていた(いまから思うとこの時点で僕はちょっとした「『冒険』ブルー」にかかっていたのかもしれません。ちなみにこの「『冒険』ブルー」というのは、僕が勝手に思いついた造語で使い方は「マリッジ・ブルー」と同じです)。ついさっきまで、僕は「崖の上にある古民家」で海風に吹かれながら対岸の島でくるくると回る数十機の風車を眺めていたのだ。その前は山羊に追いかけられたりしながら、赤穂が頭を垂れている風景を目の前していたのだ。それがどうだろう、いまは風車も山羊もここには存在しない_ しばらくの間、僕はそこに佇んで彼女たちが店の外に出てくるまで目眩にも似た感覚をやり過ごしていた。やがてそれも収まる頃には、僕たちは車で松江市を北上して島根と鳥取の県境にある港町「美保関(みほのせき)」に到着していた。この港町は昔から巨石文化のある場所として、沖合の海から青く光る石を切り出してきて町の敷石に利用していることで有名な町だった。僕たちが到着したちょうどその時、雨降りと重なり敷石は青く妖しい光りを帯び始めていた。泊まった老舗旅館の雰囲気や地元のキーパーソンとの会敵も相まって『冒険』はいよいよ佳境を迎えていた。


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「お喋りマツエ」

翌日の朝、僕たちは老舗旅館で朝食を済ましたあと、その場所を逃げ去るように松江市内へと戻った。その日の朝も敷石は青く妖しい光りを放ちつづけていた(僕は霊感みたいなものは持ってないけれど、この港町には何か特別な力が働いているような気がしました。同じ海辺の町でも鵜鷺とは全然雰囲気が違って、地元のキーパーソンにその辺のことを尋ねたら「その昔、この港町は花街でしたからおそらく、そういう妖しさが漂っているんのではないのでしょうか。」と笑いながら答えてくれた。でも、僕はそういう妖しさよりももっとフィジカルなそれこそ鳥肌が立つような妖気を感じていたのですが。それについては敢えて触れずにその場は頷いておいた)_ 「今日は皆さんに紹介したい人が市内で待っておられるので少し寄り道しますね。」と何でもなさそうに僕たちに伝えた担当N氏はアクセルを踏み込んで速度を上げた。この日、僕たちは松江市を離れて「『冒険』奇譚(前篇)」で滞在した中山間地域の佐田に近い雲南市の木次(きすき)で乳業会社を訪問することになっていた。でも、その前に是非会ってもらいたいキーパーソンがいるという。僕は担当N氏とは今回初めて会ったのだけれど、彼は松江市の「ふるさと定住財団」の職員として働いていて有能なんですがだんだん彼のことがよく解ってきたような気がした。平素はニコニコして柔和なんだけれど彼自身も実はこの松江市ではキーパーソンなのだ。


「こんにちわー。今日ご一緒させていただくKと云いますー。」_ よく通る声で元気なご挨拶をくださったのは、島根の中でも有名な地場野菜宅配サービスの会社を経営されているKサン。僕は事前に彼のブログを読んでいたので何となく「活動的な方なのだろうな。」と予想していたのだけれど、想像を超えるくらい快活でお喋りが上手な方だった。挨拶もそこそこに僕たちは早速、Kサンの車へと乗り換えて互いの自己紹介をしながら目的地の雲南市に向かった。道中、Kサンのお話を訊いていたら僕たちが住む世田谷の家の近くに東京の事務所を構えていることが判った。東京のローカルな話がつづく中、そろそろ話題を変えてみようと松江市のことについて伺ったら目つきが鋭くなった。Kサンの話によれば島根と云っても(松江市などは)最近は、僕たちのような若い世代が移り住んできてまったく地元の地域活動に手を貸してもらえないと嘆き始めた。「田舎ですからそりゃあ、草とりやら収穫やら何かとあります。でも、それはどうでもいいんです。問題は子どもたちのための学校や自治会の運営なんです。いまは子どものために、親は塾やサッカークラブなどに通わす人が多くなって子どもの送り迎えなどでまともに時間がとれないんですわ。学校の運営が滞ってしまった影響で今年は近所の小学校で運動会が開催できなかったですし。」_ Kサンの話が本当だとしたら、それは東京が抱える問題とほとんど一緒だと思った。


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「乳絞りキスキ」

雲南市の木次にある乳業会社に到着したのはお昼前で到着早々、僕たちは会社の中にある広い会議室のような場所に案内されて、牛乳が作られるまでの行程や製品の安全性についてビデオ・プログラムを観ながら学んだ。その場で「パスチャライズ製法」という特殊な加工方法で製造された牛乳も飲ませてもらったのだけれど、これが思わず絶句するくらい美味かった。こちらの牛乳は滅菌行程が他の会社と違っていて、絞った牛乳を高温処理する温度が低いというのが特徴らしくてなるほど、飲みごこちがサラッとしていて牛乳特有の舌にザラッと残る脂肪分がまったくない。他の会社ではこの滅菌行程でかなりの高温で牛乳を処理してしまうのでどうしても脂肪分が残ってしまうということである(僕は普段、牛乳はあまり飲まないのだけれどこの日は二本も飲み干してしまった)。こちらの乳業会社は経営理念もしっかりしていて、乳牛も近隣の山の高地でのびのびと育てており生産量も一定に保っているとのこと。東京はごく限られた場所でしか販売していないけれど、販路を拡大するつもりはないとのこと。その分、こちらの乳業会社ではチーズやアイスの製造も行っており、ちらっとベテランの職人スタッフがフレッシュ・チーズを作っているところも見学させてもらった。「チーズにはやはりワインが合うだろうということで、実は奥出雲地域にワイナリーも経営しております。」_ 堅実経営とはまさにこのことだ。


この雲南市には前回、七月に鵜鷺を訪れた際にお会いしてご挨拶をさせてもらった若いご夫婦がいらっしゃって、そのご夫婦も今年、この雲南市に移住してきたばかりで旦那さんは実はこの乳業会社で就職を決めて働いていた。当日、僕たちが見学に来ていると知ってわざわざ顔を出してくださった(しかも最後にバニラ・アイスクリームを振る舞っていただいたのですが、このアイスの優しいお味といったら!)。「楽しく働いていますよ、とにかくここでは。」と語る彼の顔を見ていると人柄が製品にも顕われているんだろうなあと思いながら、僕たちは乳業会社をあとにした。するとここで、担当N氏から提案が飛び出す。「皆さんどうでしょう? このあと時間が許されるならば雲南市に新しく出来たシェア・オフィスを見学しに行きませんかね?」 もちろん、構いませんよという返事をするまでもなく車は小さな商店街の一角を目指していた。「やれやれ。この先、あと何人の『聖人』たちと出会うんだろう?(まあ、いいさ。ここまで来たんだ、達人でも職人でも来やがれってんだ)」と僕は肝を据えた。黙っていてもメディアが追いかけてくるパーティなんだ(始めから何となくそんな予感はしていた)_ そのシェア・オフィスは町に元々あった電気屋を改装して出来たということもあって、木造りのなかなか古風な内装で一階の壁面は今風にチョーク・ウォールになっていたので、サイン代わりに自画像を残した。


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「雨降りタマヅクリ」

雲南市のシェア・オフィスを訪問を終えたあと、担当N氏はまた誰かと携帯電話で話しをつけていた。「さあ、次は誰が来るんだ? 来るならかかって来い!」という気持ちはどこへやら、もうその頃には僕は「『冒険』ブルー」の深刻な状態になっていて長旅の疲れがいままさにピークを迎えようとしていた。木次の乳業会社の見学を終えたら、僕たちは慰労がてら玉造温泉に立ち寄ろうと計画していたので担当N氏にその旨を伝えると、「わかりました。現地で皆さんのことをお迎えする者が待っています。玉造温泉までは僕が先導します。」と柔和な笑顔で応えてくれたけれど、玉造温泉に到着した頃には雨降りが本格的に始まっていた。ここで同行していたKサンと担当N氏にお礼と再会の約束をして別れた。入れ違いに僕たちを引き受けてくださったのは、玉造温泉のキーパーソンSサンだ。物腰がとても柔らかい方で僕たちの目的を知ると、ノートパソコンのスライドショーを駆使して「自分はこんな人間です!」と自己紹介を始めてくださった(詳細は省かせてもらいますが、このSサンは荒んでいた玉造温泉の観光状況を、知恵とアイデアや驚異的なやる気で180度ひっくり返してしまった人物で、<後日附記>に記した松江市の「Hプロジェクト(仮称)」のチームメンバーのお一人だった。ちなみに美保関でお会いしたキーパーソンの方も同プロジェクトのメンバーで後日、僕はこのお二人と東京で再会することになる)。


「Hプロジェクト(仮称)」の打ち合わせがまさにこの後、松江市で行われる予定があったのに突然訪れた僕たちを温かく迎え入れてくださり、出発のギリギリまで時間を割いて「玉造温泉の再生物語」を語ってくださったキーパーソンSサンの説明によれば、温泉街の再生までに十年くらいはかかったとのこと。無駄遣いしていた温泉街の宣伝費を見直して、人気イラストレーターを起用して紹介写真を一切使用しない小冊子を発刊(僕もこの手の小冊子を作ってきたことがあるので判るんだけれど本当によく出来ていました。「温泉街の宣伝ツールをほとんどこれに集約してしまった。」と仰っていたけれど、大胆な発想が素晴らしかった)、また温泉の効能を文字だけで知るのではなく「持ち帰って再現できる」ように、コスメティック用に商品展開をしてサテライト・ショップまで開かれ事業化したのが大当たり。全国規模で注文が舞い込み財政面で黒字化に成功したという。その他、願掛けの仕掛けを上手に利用したりとお話は尽きなかったのですが、残念ながらそこでタイムアップ_ 実際に当地の湯に浸かりながら僕は今回の「『冒険』奇譚(前・中・後篇)」を早くも振り返ってみたけれど、旅の疲労と度重なる『聖人』たちとの会敵で思考はほとんど停止した状態で何か物を考えようにもぼんやりと霞がかってその先が想像が出来なかった。わからない、あるいはそれはただの湯けむりのせいだったのかもしれない。


[了]


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「後日附記」

玉造温泉で休んだあと僕たちは松江駅までバスで移動してそこで別れた。旅の途中だったけれど僕としては当初の目的は果たせたし、もうこれ以上長く滞在していてもまともな体験が出来るとは思えなかった。移動に次ぐ移動で体力的にも限界を迎えようとしていたし動物たちと触れ合っていたところから、いきなり『聖人』たちと会敵したことで調整が利かず前述したように、「『冒険』ブルー」の状態が起こりつつあった。目まぐるしいスピードで情報が行き交う不自然な日常生活(都市部で暮らす人びとにとっては、それが自然なのでしょうが)を送っていたところから、便利さとは無縁の場所で自然と共に生きる日常生活を体験してきた今回の『冒険』の振り戻しがやってきたわけです。こうなるとあとは何もしても元にはなかなか戻りません。大人しくテントを畳んでベースキャンプから、麓の町まで下山するだけです。という訳で僕の「島根担当♯3_羊をめぐる冒険」はこれで終りました。考えてみれば、僕はこれまでの『冒険』で島根県の限定された場所だけではありますが、山奥と海辺と中山間地域とバランスよく巡って来ました。最初は奥出雲で囲炉裏のあるサスティナブルな生活を体験して、次は鵜鷺の均衡が図れたコミュニティ・フィールドを目の当たりにして、そして今回は佐田で動物たちと触れ合いながら「ハブ機能」を持った町の在り方について学んだわけです。一年に三回、なかなかのペースです。


『東京』に戻ってきてから一ヶ月くらいをかけてこの「『冒険』奇譚(前・中・後篇)」をまとめてきましたが、その途中で今月初旬に都内某所で松江市が水面下で準備を進めてきた「Hプロジェクト(仮称)」公開イベントが開かれるというので参加してきました。そこで僕は何人かの『聖人』たちと再会を果たしましたが、その公開イベントの内容は「ふるさと定住財団」の事務所で面会した時に伺った内容とほとんど同じものでした。松江市は過去何度かの地域統合を経て、現在は数ブロックのエリアから成り立っているのですが、地域によっては地場産業や町おこしの部分で十分にその土地のポテンシャルを引き出せていないのが現状で、行政という立場では人口減少や税収面の対策を早急に考えておかないといけないので、各ブロック毎に「シン・地域おこし協力隊」メンバー募集を集ってそれを民間団体(美保関や玉造温泉の『聖人』の方々です)とタッグを組んでプロジェクト化しようというのが今回の動きだそうで、僕はこのプロジェクトには最初乗り気だったのですが、彼らの話す言葉を聞けば聞くほど首を横に捻ることになった。彼らの話す言葉はつねに「事業化」「ビジネスモデル」といった、『東京』の街角で耳にするような内容と一緒だったからです_ そして、僕は公開イベントに参加したその翌日、「ふるさとつなぎ」の担当S氏に連絡をとって、鵜峠の「『崖の上の古民家』に住みたい。」と告げた。


次回、『絵描きPANKICHIのワクワクをめぐる冒険』ブログ更新は12月下旬更新予定です。
タイトル「島根探訪♯4_冬のナギサ」前後篇へとつづきます。乞うご期待^^























































2015年10月19日月曜日

島根探訪♯3(中篇)_ ブルーオーシャン


いつか芝生のついた家に住むようになったら、僕はまた芝生を刈るようになるだろう。

(中略)その時になっても、僕はすごくきちんと芝生を刈るに違いない。

—— 村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』(『午後の最後の芝生』より)


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「乾かしイズモ」

ストレッチが利いた軽量のショートパンツに同じような素材のスポーツTシャツ_ご丁寧に背中には出場記念用のマラソン大会名が刺繍されてある_を着て先ほどから熱心に屈伸運動をしている。スポーツに詳しくない人間から見たらこれからマラソン大会の練習に出るのか、もしくは練習を終えて柔軟体操をしている選手に見間違えたかもしれない。でも、実際のところはそのような見間違いが起きるはずもないことくらい僕自身が一番よく解っていた。なにせその場所は、出雲市内のスーパーマーケットに併設されている真新しいコインランドリー前の駐車場の敷地だからである。走るのには不釣り合いなくらい濃いサングラスをかけており足首だって陸上選手にしては些か細すぎる。それに足元の運動靴も、ナイキのランニングシューズではなくてアディダスのテニスシューズだ_ いまから三十分前に僕ら_僕と妻と義理の妹とS氏(今回の『冒険』の手配をしてくれた担当者)だ_はこの場所に車で移動してきた。山陰地方のこの辺りは朝晩は十度以下になることも珍しくない季節だというのに、今日に限っては真夏日のような暑さだったので着ていた洋服をそっくり全部脱いで(僕ら以外は誰も居なかったからコインランドリー内で着替えた)巨大な洗濯機の中に放り込んだ。それでいまは洗い終えた洗濯物を乾燥機に移し替えて意味のない屈伸運動をしながら洗濯物が乾くのを待ちつづけている。


中山間地域の佐田(さだ)で蕎麦打ちを体験したあと、数日間を共に過ごした参加者の皆んなに別れを告げた僕らは(出雲)大社にほど近いこの場所に戻ってきた。別れ際に再会を約束した者もいれば、この先二度と会えないかもしれないなと思う者もいたけれどセンティメンタル・ジャーニーになるにはパーティーの人数は多すぎたし_車中、仲の良い姉妹は修学旅行生みたいにキャアキャア騒いでいた_それに感傷的な気分に浸っている場合ではないのだ今回の『冒険』では(僕らには何と云っても目的があるのだ)。 _そう、『目的』だ。僕らには次の場所で果たさなくてはいけない目的があった。僕らが向かっている場所は、鵜鷺(うさぎ)地区といって鵜峠(うど)と鷺浦(さぎうら)地域から成り立っている。人口の多い鷺浦の村でも三百人に満たない超限界集落である。鵜鷺を訪れるのは僕はこれで二度目である(二ヶ月前にS氏が代表を務める「ふるさとつなぎ」を通じて「『田舎』くらし体験」をした)。姉妹も何度かこの地区を訪れていて、今回は「随時開催型」と呼ばれる内容でプログラムを組んでもらった。鵜鷺の魅力は何と云っても、「海辺の小さな町」そのものである。 _洗濯物が乾いたことを告げるブザーが大きく鳴り響いた。僕は屈伸運動を止めて、眩しい太陽を仰ぎながら一度だけ大きく背伸びをする。「島根探訪♯3_ブルーオーシャン(中篇)」の始まりである。


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「潮さいウサギ」

鵜鷺に行くのには二通りある。一つは(出雲)大社の裏山を越えてゆくルートできちんとバスも通っている(でも、夕方の便を最後に市内に戻ってくることは出来なくなる)。もう一つは大社入口の大鳥居を正面に左手に折れて稲佐の浜に向かい、日本海側を北上するルートである(僕は毎回、この海沿いルートで鵜鷺に向かっている)。この稲佐の浜は「日本のなぎさ百選」にも選ばれていて毎年、旧暦の十月には全国の八百万(やおよろず)の神々がこの出雲の土地に集まって「神様会議」を行うための『入口』としても有名な浜である(今年は十一月下旬に「神迎神事・神迎祭」が行われる予定)。 _気がつけば、すっかり陽が傾いて夕日が日本海に沈もうとしている。いつの頃からか忘れてしまったけれど_きっと全国各地の書店を巡る仕事をしていた出版社時代の頃だと思う_僕はこのように綺麗な夕日が沈む景色を追いかける「サンセット・ハンター」として、『冒険』に出た際には決まってその土地での夕日を眺めるのを楽しむようになった(人生の密やかな楽しみってやつです)。「夕日なんて何処で眺めても一緒でしょう?」って云う人間(ひと)もいるけれど、その土地の空気や水がそれぞれ違うように夕日の見え方にも違いはもちろんあります。僕の知っている限り、島根県の(とくに松江の宍道湖に沈んでゆく)夕日の景色はいままで眺めてきたどのそれよりも一番美しい光景だった。


その日の夜は初めて鵜峠(うど)の町で民泊したのだけれど、夕食は何組かのゲスト_別プログラムで当地を訪れていた母娘や鷺浦に移住して間もない若い夫婦、そして「ふるさとつなぎ」の古くからのスタッフやS氏の妻子らだ_を交えて団欒の時間をとった。『宮前屋』という屋号で親しまれているこの古民家は、ゆったりとした土間があって二十畳もあろうか思われる広い居間と使い勝手の良さそうな台所、年期の入ったコンパクトだけれど趣のある風呂場に便所(もちろん汲み取り式です)という間取りになっている(二階につづく階段もあるのだが、現在は使っていない様子である)。夕方、古民家に落ち着いた僕らは先ず順番に風呂に入って、ゲストが到着する前の小時間を夕涼みがてら近所の浜辺を散歩して過ごした。鷺浦の町の浜辺と違ってこちらは船着場の広さもないから散歩できる距離も限られている。古民家を出てすぐ目の前に浜辺があって堤防の脇には今後そこで干物作りをするための建物がポツンと佇んでいる(この建物の中を夏に見学させてもらったけれど冷凍庫の中には焼いたら美味そうな干物が保管されていた)。それ以外、これといった特徴はない町だ。数えるほどしかない古民家、小さな船着場、干物作りの建物、村人の姿はほとんどない_ 途中で犬の散歩をしている女性とすれ違い軽く会釈をする。その小さな海辺の町で、耳にすることが出来たのは潮さいくらいだ。


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「家巡りウサギ」

翌朝、僕らは目を覚ますと身支度をして昨夜の夕食の残りもので簡単に朝食を済ませた(昨夜の夕食は、鷺浦に住んでいる料理人が出張して作ってくれたのだが土地の食材を使った滋養のある料理はどれも美味しかった。ちなみにその料理人も移住者とのこと)。今日は鵜峠と鷺浦の両地域の古民家を巡り、実際に移り住むのに適した住居が見つかるか探る予定である(とは云ってもすぐに移住出来るわけではないから、いわゆる視察ってやつですね)。鵜峠の古民家巡りで先導してくださったのは鵜鷺コミュニティセンターの管理人(以降、センター長と呼ぶ)でこの夏、コミュニティセンターで開かれた交流会でも少し話をさせていただいた(センター長も鵜鷺の町にUターンした方だ)。朝食を済ました僕らを迎えに来たS氏と一緒に浜辺まで向かうと、すでにセンター長が待っており再会の挨拶もそこそこに早速、高台にある古民家を紹介してくれるという。鵜峠の町は入江に面した細長い谷間に古民家が密集しているが、僕らが泊まった『宮前屋』の古民家の裏手はたしかに高台になっており、そこには築百五十年以上も経った古民家があるという。『上中屋』という屋号のこの古民家は「廻船時代の頃に建てられたものを増改築しながら先代、先々代と住んできたがこの数十年は使っておらずこうして定期的に家の掃除や畑の草とりをしにやってきている。」と語るのは古民家の持ち主である老女性_


_高台で僕らを待っていた老女性はなおも語りつづける。「風呂場なんかも昔は窯焚きだったから、ご覧の通り薪木をここに積んでおいたのよ。いまは見る影もないけれど。」 鵜峠の高台にある古民家は築百五十年以上も経過しているようには見えない外観だったけれど。なるほど、持ち主の老女性の云うように母屋の増改築していない箇所をよく見るとところどころで昔の面影が残っている。五右衛門風呂ではないけれど薪を焼べる開口部分には鉄具がそのまま残されており、ついさっきまでそこに誰かが居たような気配を感じさせる(もちろん、そんなのは錯覚で鉄具も錆だらけだし風呂場は半壊して埃やら煤をたっぷりと被ってしまっている。綺麗に掃除したところで実際に使うのは難しいだろう)。センター長と老女性が長話している間に、僕はこの古民家をいろいろな角度から見て回った。増改築した室内は未だ綺麗で住むのには十分だけれど、家屋全体を見ると潮風に長い間晒されてきたため建板は痩せてほっそりしているように見えた。二階の窓と思しき部分はガラスが嵌められておらず陽が差し込まないように遮断されている。でもロケーションは何と云っても抜群に良かった。老女性に案内された離れの果樹畑には柿や栗が実っており、一緒に手入れをしながら「長閑(のどか)って言葉はこの場所のためにきっとあるんだろうな」と思った。対岸の島では数十機の風車が回りつづけていた。


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「御月見ウサギ」

鵜峠での古民家巡りを終えた僕らは昼食をとるために車で鷺浦の町に移動してきた。町の中心部にある唯一の食事処で冷たい饂飩をいただきながら、午後は鷺浦の町の古民家巡りを先導してくれるナビゲーターを待った(でも、結局のところ鷺浦の町で僕が「ここに住みたい。」と思うような古民家は無かった。一軒だけ惹かれる家があったけれど、その古民家はちょっと変わった設定で食事をとる家屋と風呂場のある家屋が通りを挟んで別々でいわゆる、水周りが「セパレート型」の古民家だった。その設定は悪くなかったのだけれど、如何せん町の中心部に位置していたので憂慮することになった。あるいは、僕らは午前中に見た『上中屋』の古民家にすっかり魅了されてしまっていたのかもしれない)_ その日の夕方、担当のS氏の計らいで鷺浦の町から車で四十分くらいの場所にある出雲日御碕灯台に出かけて灯台の上から「サンセット・ハント」することになった。普段、僕が東京で眺めている夕日と違って日本海に沈んでゆくそれはとても荘厳で畏敬の念すら感じさせるものだった。こんなことを前篇の佐田でも云っていたら、民泊先の女主人から「五感を研ぎ澄まされておられるのですね。」と返答をもらった(こんなことを自分の口から云うのもおこがましいんだけれど、芸術家って「見えないものをいかに見抜いて、それを人びとにどう伝えるのか?」っていつも考えている人種だと思う)。


鷺浦での民泊先はこの夏に僕がお世話になった「鵜鷺げんきな会」の会長宅だった。こちらの邸宅は内装がとても綺麗で「ちょっとした旅館」レヴェルの快適さが味わえる(風呂場の窓からは鷺浦沖が一望出来るし便所はウォシュレットが付いた水洗式である)。また、会長とその奥様の気さくな人柄にこちらもつい甘えてしまう場面が滞在中いくつかあった(例によって、汚れた衣類を洗濯機で洗わせてもらった)_ 一昔前のホームドラマに出てくる舞台セットみたいに二階の建物の窓から身を乗り出せるかたちで物干し小屋があり、そこで僕は洗ったばかりのスポーツTシャツとショートパンツを_もちろん馴れた手つきで_干しながらふと、辺りが異常に明るいことに気がついて見上げると夜空にぽっかりと穴が開いたように満月が浮かんでいた。山から吹く風がゆっくりと雲を海に運んで、満月の明かりをたっぷりと浴びた雲は羊の群れのように閑かにたなびいている。「この景色はどこかで見たことがあるぞ。」と僕は思う_ 月の光、雲群れ、丘陵線……そうだ、絵画だ。東京の某美術館で見たヴァロットンの「月の光」という作品にそっくりなんだ(とき時、_というか結構、僕の場合は頻繁に_こういう既視感(デジャヴュ)が起こります。それは、きっと世界と僕の意識を繋ぐための補完作業なんだと思います)。僕は物干し小屋の柵にもたれながらいつまでもその景色を眺めつづけた。


「島根探訪♯3_ブルーストーン(後篇)」へつづく_


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「後日附記」

鵜鷺(うさぎ)という小さな海辺の町の存在を知ったのは実は二年くらい前のことで、初めはパートナーや義妹が訪れたのをきっかけにそういう地域があるんだ程度のものでした。そして、誰もがその地名を耳にして感じることでしょうが、「ユニークな名前の土地もあるものだな。」と思ったわけです。その後、彼女たちの強い勧めもあってこの夏、僕はその土地を実際に訪れたわけですが想像していた通り長閑(のどか)で居心地の良い町でした。当初、彼女たちの話の中でしかその町の良さを共有する方法がなかったわけですが実際に自分が滞在してみて「なるほど、これは彼女たちも勧めるわけだ。」と納得する場面がいくつかありました。行ったことがある人なら解ると思うのですが、一言で云えば「町そのもの」が魅力的なんですね。具体的には、町の「コンパクトさ」に魅力があって、鵜峠(うど)と鷺浦(さぎうら)から成るこの地域はいわゆる、限界集落なんですが僕らがその言葉から想像する悲壮感みたいなものはなくて(もちろん、町に残っている古民家の大半は空き家なので辺りはひっそりとしていますが)、目を凝らしてよく見ればそこにささやかな日常の営みというものがまだ息づいていて、海底から引き上げた大粒貝から真珠を見つけたときのように眩く光っている。潮さいと山風の吹く音以外は何も聞こえず、かえって閑けさだけが際立つ小さな海辺の町に僕はすっかり魅了されてしまったわけです。


僕は東京の駒沢という場所で生まれ育ったのですが、近所に大きな公園(五年後のオリンピック開催に向けて現在、園内の道路整備や球技場を建て直している)があって、大学もその公園に隣接する学校に通いました。卒業後の就職先も隣町の自由が丘という_芸能人や有名人をはじめとするハイソな人たちが住んでいる_場所にしばらくの間、通勤していました。言うなれば、『東京人』を三十数年やってきたわけです。ですから、盆暮に世間の人びとが『田舎』(実家)に帰省するのをどこか羨ましいなと思いつづけてきました。僕にはいわゆる「ふるさと」がなかったわけです。そのような劣等感にも似た感情を抱きながら、昨年辺りから島根という縁もゆかりもない土地にどういうわけか呼ばれて何度か訪れるようになったわけですが(どうもその辺の事情が関係しているみたいです)、この鵜鷺という小さな海辺の町は僕が恋い焦がれていた「ふるさと」のイメージにかなり近かったわけです。そういう意味では、僕自身は『移住』を決めるための土地を探してきたというよりは、擬似「ふるさと」を作り出そうとしているのかもしれません。両親が住んでいる実家がなくても、探訪のご縁によって生まれた人間関係を梃子にその土地に「帰れる場所」を展開しようと考え始めているのかもしれない。「でも一体、僕はどうしてそのような考えを持つようになったのだろう?」_ その答えは『冒険』忌憚(後編)に出る。





























































2015年10月9日金曜日

島根探訪♯3(前篇)_ 羊をめぐる冒険



やったことの大きい小さいではなしに
自分の心のかけ方の大小が
その人の冒険の喜びの大きさになる

植村直己(冒険家)


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「物語りシマネ」

昨秋の奥出雲の探訪に始まり、今夏は鵜鷺(うさぎ)に足を運んだ。いずれも『ふるさとつなぎ』という団体が提供する、「『田舎』暮らし体験」のプログラムである。初めて訪れた島根県の最初の到着地が、出雲大社で僕がこれまで見てきた神社仏閣とは一線を画す代物だったのを記憶している(当ブログ2014年10月記事参照)。そのあと、神話の里と呼ばれる奥出雲に場所を移してそこで数日間を過ごした。人間(ひと)を寄せつけない山深い場所での生活を通じて、滞在中は「サスティナブルな暮らしとは何か?」と自問した。その 8ヶ月後、今度は海辺の町で「『田舎』暮らし体験」をした。出雲大社の裏山を越えた場所にある、鵜鷺は鵜峠(うど)と鷺浦(さぎうら)の二つの町から成り立っている。その時は、鷺浦に滞在したのだが人口約240名ほどの限界集落で、僕は「人生の豊かさ」について学び直した(当ブログ2015年7月記事参照)_ そして、三度目の訪問となる今回は中山間地域の佐田(さだ)を皮切りに出雲市(鵜峠+鷺浦)→ 松江市(松江+美保関)→ 雲南市(木次+α)と広範囲を巡る大『冒険』に出た。「島根探訪♯3_羊をめぐる冒険」の始まりである。


今回の『冒険』は大きく分けると、中山間地域の佐田[羊をめぐる冒険篇]と海辺の町(A)の鵜鷺(鵜峠+鷺浦)[ブルーオーシャン篇]と同じく海辺の町(B)の美保関[ブルーストーン篇]の三エリアで構成されている。後篇[ブルーストーン篇]では途中、松江市の城下町と雲南市の木次(きつぎ)を巡ったが基本的にはこの三エリアの探訪を中心に今回の『冒険』の様子を前・中・後篇で記したいと思っている。また、今回の『冒険』の様子は前回のような『物語』仕立てではなく前々回のような文体に戻している(理由は二つある。一つは今回の『冒険』が広範囲にまたがっている点で、出来るだけ脚色は避けて事実だけを記して読者に判断や評価を仰ぎたかったこと。もう一つは、今回の『冒険』では_それが僕の次の目標にもなるんだけれど_『移住』に即した観点を持ち合わせている点で、出来るだけ公平な視点で物を語りたかったこと。あとで読み返した時に、僕自身も正当な判断や評価を下したかった)。例によって、ところどころでユーモアや冗談が差し込まれていますが、その点についてはどうか温かい気持ちで読んでいただけると僕としても救われます。


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「物酔いイズモ」

今回の『冒険』は、ひどい乗り物酔いから始まった。これまで島根県へは、高速夜行バスや飛行機を利用して現地入りしてきた。例によって、二ヶ月前から準備をしていたにも関わらずスケジュールの調整から移動手段の手配が後手になり、そして今回は初めて列車を利用して当地に向かうことになった。東京から集合場所である出雲市駅までは、寝台列車「サンライズ出雲」を利用すれば乗り換えなしで済むのだが、近年は出雲大社大遷宮で「出雲詣ブーム」がいまでもつづいており、「サンライズ出雲」の乗車チケットは瞬く間に SOLD OUT になってしまった。仕方がないので今回は岡山駅まで新幹線で向かい、そこから在来線『やくも号』に乗り換えるかたちをとった。僕は移動中に飲み物を除いてほとんど物は食べないのだけれど、今回は列車に長時間乗るのでせっかくだからという理由で駅弁を楽しむことにした。岡山駅での乗り換え時間は短かったので、事前にインターネットで調べておいて正解だった。乗り換えの改札口に一番近い弁当屋で『いいとこ鶏』という名前の駅弁を購入したのだけれど、僕がこれまで食べてきた弁当の中でもトップクラスの美味しさだった。


ところが、残念なことに在来線『やくも号』の揺れが激しくて、乗車して間もなく僕は「乗り物酔い」に悩まされることになった。あとで知ったのだけれど、この路線は予算が乏しくて旧・国鉄時代からの線路をそのまま利用しているのでカーブに差し掛かると列車も内側に傾いて揺れが凄いことになるらしく、僕は二時間以上も「ジェットコースターに乗っているような感覚」に襲われることになった(「島根探訪♯1」で知り合った男の子がたまたま今回の参加者の中にいて、彼は鉄道に詳しくて今回の経緯を語ったら「そら、兄さん当たり前ですわあ。何せ『やくも号』の別名は『振り子列車』と云って、揺れの激しいので有名ですから」と笑われた。書いているいまも三半規管がおかしくなりそうだけれど)。そんなこんなで、購入した『いいとこ鶏』は出雲市駅に到着する直前にかき込んで食べることになった。こんなことなら、始めから「飛行機を利用しよう。」と決断していれば良かった。最近は早割なんていう便利なシステムもあるわけだし(今回、往路の移動時間は、六時間半〜七時間くらいかかりました。列車移動の好きな方は別にして移動手段はやはり飛行機をオススメします)。


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「稲刈りサダ」

集合場所である出雲市駅に七分遅れで到着した僕ら_あれだけ飛ばして運転しているのになぜか列車遅延した_を出迎えてくれたのは、「しまねの仕事&暮らし体験 in 出雲・佐田」プログラムの主催者だった。車を走らせてオリエンテーションを行う場所まで移動する(佐田の集会場入口ではボランティアスタッフや別の参加者の方々が僕らの到着を待っており、中には知った顔もいてようやく緊張が解れる)。今回の『冒険』の目的はいくつかあるのだけれど、この前篇[佐田地区]では中山間地域での「『田舎』暮らし体験」をしたかったことが挙げられる。とくに今回は「畜産業」に携わる人びとの話を聞くことが出来そうなので参加を決めたところもあった。食材で喩えるのも恐縮なんだけれど、これまでの体験では山の幸(奥出雲)や海の幸(鵜鷺)をごちそうになってきました。今回のプログラムでは「ジビエ料理」(狩猟による野生鳥獣の食肉料理)が楽しめるということで、「バランスが良いかも」と思ったわけです(僕自身、料理はよくするんだけれど「ジビエ料理ってどんなものなんだろう?」と元々興味がありました。それに食わず嫌いはよくないですしね)。


オリエンテーションのあとにお茶屋に寄って地元の方々の話を聞いたり、移動の疲れを癒しに土地の温泉に浸ったり、もちろんお目当てのジビエ料理(やバーベキュー)も堪能したりと初日から充実していたのですがその日、僕が一番にエキサイティングだなと思ったのは「赤穂の稲刈り」作業でした。今回の「『田舎』暮らし体験」は企画を『ふるさとつなぎ』が行い、主催は地元法人『未来サポートさだ』が実施しているのが特徴で正式名は「アグリ体験交流事業『仕事トラベル』」と呼ばれるものでアグリ体験を通じて佐田地域で働く人びとの「仕事巡り」をするという内容でしたが。主催者の機転で、プログラムになかったもち米の栽培畑を訪れることになり、農家の方の丁寧なご指導をいただきながら実際に稲刈りをさせていただいた_ 夕暮れ時の涼しい清風が流れる中、見事に実った赤穂が揺れるのを眺めながら、長靴を履いて腰を屈めて稲刈りをしていると「生かされているのだなあ、この豊かな自然の中で人間は。」と実感することが出来た。さらに幸先良いことに僕らが刈り取った稲穂はスサノオノミコトゆかりの「須佐神社」に奉納させていただくことになった。


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「窯焼きサダ」

翌日、陽が昇る前に目が覚めたので(気が高ぶってまともに眠れたことがない)、泊まっていた古民家をこっそり抜け出して近所を小一時間ほど散歩してみた。当然ながら辺りはまだ寝静まっていてひと気はない。目の前に広がる畑はスポットライトを浴びる前のバレニーナたちが舞台袖で身を寄せ合う姿みたいに稲穂が朝露に濡れてひっそりとまとまっている(このあと彼女たちは陽を浴びて黄金色に輝き出すのだ)_ 朝食を近所の温泉施設で済ませた僕らはその裏手にある須佐神社に場所を移して、語り部(かたりべ)からガイドを受けながら参拝を済ました。「最近は(出雲)大社の方からもこちらへ観光客が流れてきますが、そのほとんどが女性客です。何せ日本一のパワースポットが実はここに在るわけですから。」と語り部が豪語するように、須佐神社はご利益の数が他の神社に比べて異常に多く、境内には不思議な謂れの「塩ノ井」(塩水が湧く井戸)や樹齢千年以上の「大杉」(御神木)が祀られていたりと何やらいろいろ有り難そうである(本当はもっと調べればいろいろ解るんだろうけれど、世の中の「パワースポット好き」の女性と比べたら僕の貪欲さなんて微々たるものです)。


須佐神社参拝のあと、午後の行程(の詰め込み感)がワイルド過ぎてところどころで記憶が交錯する。地元の牧場見学をしてそこでピッツァを焼く体験をしたところまでは覚えているのだが、そのあとの肝心な「里山しごと巡り」が薄靄がかかってしまって上手く思い出せない。きっとあまりに多くの場所を訪れて多くの方々から多くの話を聞いたので、頭の回線がショートしてしまったんだと思います(僕の頭は最新のコンピュータみたいに処理能力が高くないから、いろいろな作業を同時に行うことが出来ないんです)。とはいえ、『達人』たちから里山で暮らすための知恵を授かり、彼らの中にある「共通点みたいなもの」を僕なりに発見しました。それは、「生きることに意欲的であること。」_ 一次産業に従事している人びとは善かれ悪しかれ自然や生き物を相手に暮らしていて、大がかりな設備投資を必要とする新事業を立ち上げることは出来ません。でも、たとえば害獣駆除として処分されるはずの猪の肉を加工して特産品(コロッケやラーメン)に変えるなどの「再生事業」に取り組む意欲を持っていました。 _それにしても、昼間に石窯で焼いた米粉のピッツァの美味しさには参りましたね。


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「粉打ちサダ」

佐田での滞在最終日。この日も朝早くに目が覚めたので近所を散歩して、やはり同じように温泉施設で朝食を食べる(実はこの温泉施設は今回の主催者が経営を務めていらっしゃって、地元の方々や遠方から来られる観光客に重宝されている。中山間地域のとくに観光名所における温泉施設というのは、人の交流が生まれる「ハブ」機能を有している好例である)。そして、午前中は別地区にて空き家を見学させていただいたのだが、離れに立派な御蔵をお持ちで収穫した米や野菜を昔はここに保存していたと説明を受ける_ 全然、話が変わるのだが、今回の『冒険』の(前篇の)タイトルに『羊』と入れているのは、僕が個人的に好きなだけで実際には巡るほど出会ってはいない。けれども、この佐田地区では実に多くの動物たちと出会うことが出来た。その中でも印象に残っているのが、山羊の親子に出会えたことだろう。双子の山羊はとても人なつこく、毛並みは真っ白で『アルプスの少女ハイジ』に出てくる山羊そのままだった(余談ですが、僕は生まれ変わったら『羊』になりたいと思っているんだけれど、そういえば昔「動物占い」は『羊』の設定だったからあるいは関係しているのかもしれない)。


交流事業の最後は地元で栽培された蕎麦粉を使って「蕎麦打ち体験」をしましたが、蕎麦打ち同好会の『達人』たちからは「初めてにしては筋がいいよ。」と褒めていただきました(昔、食品販売に携わる仕事をしていた時、「粉もの」を扱っていて蕎麦打ちこそしなかったけれど。粉の段階からパイを焼いたりドーナツを揚げたりしていたので、水分を足すさじ加減や手捏ねの感覚は何となく覚えていた)。でも、昨日の窯焼きのピッツァもそうですが自分で作った物ってどうしてこんなに美味しく感じるんでしょうかね(ちなみに蕎麦打ち一回で四人前の蕎麦が茹でられるのですが、皆が二人前を食べて「お腹がいっぱい。」と云っている中で、僕はほとんど平らげてしまいました)_ 蕎麦打ちに夢中になっていて気に留めていなかったのだけれど、最終日に地元新聞社の記者が僕らのことを聞きつけて取材同行していました。僕も蕎麦切りしながら、記者の質問にいくつか答えた記憶があるけれど。何の話をしたかは忘れてしまいました(でも、その数日後に僕は新聞の一面記事で自分が何を答えたのか知ることになる)。


「島根探訪♯3_ブルーオーシャン(中篇)」につづく_


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「後日附記」


「『冒険』奇譚(前篇)」では、前回(と前々回)の『冒険』のイントロデュース部分が挿入されていたのでいまいち、佐田での「『田舎』暮らし体験」の温度感が伝わらないと思ったのでここに附記しておきます(体験した内容や知り得た事実からこぼれた落ちた「籾殻(もみがら)」のようなものを記しておきたかった)_ 佐田での滞在期間は短く「『田舎』暮らし」というより「『仕事』巡り」の色が濃かったのは本当で、僕は出来る限り個人レベルでその土地の空気や時間の流れ方を確かめようと朝早くに散歩に出たり、温泉施設を利用している人びとを観察していました。夕食を兼ねた地元の方々との交流会では自己紹介の時間はあまり割かずに、相手となった方々とひたすら土地の歴史や暮らしぶりについて話を伺っていました。会話を通じて思ったのは「どこまでも前向きだな。」と思ったことです(野望とか挑戦といったギラギラとした積極性ではなくて「日が沈めばまた日は昇る。」みたいな辛抱強い積極性です)。それと、ジビエ料理が関係しているのかはいまひとつよく解らないのだけれど、お会いした方々が全員タフネスな肉体を持って行動されているのが印象的だった(ジビエ料理って精がつくのかしら?)。


これは私見なのだけれど、僕らのような都市部からの『移住』を考えている者にとってはやや同世代の人間がいなかったのが気になりました。『達人』たちの活躍に圧されながらその土地で何か新しいことに挑戦したり、あるいは個人的なことを相談するのには些か、「のりしろ」が足りないかなと思いました(窮屈に感じてしまう場面がおそらく出てくると思う)。でも『達人』は『達人』たちで僕らのような「やや若い」フットワークの良い人間がいたら良いなと思っているようでした(その方々が仰られたわけではありませんがそういうのは話を聞いていて何となく解りました)。「中山間地域の課題は次代を担う、後継者やリーダーを育てることにあるのだな。」と僕は感じましたし、たしか新聞記者の方にもそう答えました。いろいろ思うところはありましたが、佐田の村人たちは心が稲穂のように柔らかくて逞しくて清々しい人びとばかりでした。「『仕事』巡り」の手配等、コーディネートの調整で大変だったと思われますが、移動の時々、佐田のいろいろな名所も巡ったので村の「立体的なイメージ」を持つことが出来たので感謝しております。でもまあ、ちょっと前篇から羊に追いかけられているようなスタートだったけれど。

























































2015年7月30日木曜日

白ウサギを追いかけて。



“One can’t believe impossible things.
I dare say you haven’t had much practice.”_

「人間(ひと)は不可能なことは信じられないものよ。
あなたは未だ信じる練習が足りないんじゃないかしら?」_

“Alice in Wonderland”より




♯1「冒険、再び。」

一年半ぶりに乗る飛行機には何の感慨もなかったけれど、バスや電車を乗り継いでいくうちにようやく『移動』の感覚を取り戻してきた。身体の重さはまったく変わらないけれど、フットワークはいつの間にか重たくなっていたようだ。今回の旅は、《巡礼の旅》と題して島根県を再訪してお礼方々、『海辺の町の田舎暮らし体験』をするのが目的だ。出発を決めたのが直前だったため、出雲空港行きの便は満席でキャンセル待ちの状態。アクセスルートを探っている間にも高速バスの空席も埋ってゆく状態だ(オンシーズンの初めの連休ということもあって、ただでさえ少ない直行便は短時間で SOLD OUT になってしまう)_ 昔取った杵柄じゃあないけれど、無い知恵を振り絞って別ルートから現地に入れないか考える。視野を広げてみると_Google Earthみたいに_隣県に米子(鬼太郎)空港がある。仕方がないのでチケットを手配する。空港からシャトルバスが出ているはずだから松江駅前に運んでくれるはずだ。松江駅から宍道湖を周回しながら、電車で移動すれば目的地の出雲市駅に辿り着くはずだ(滞在先はそこからさらに車で移動して、日本海側に面した海辺の町なのだけれど)。さて、どうなるやら_



♯2「海辺のパンキチ。」

海辺の町の朝は早い。陽が昇る前の朝四時頃には漁師たちが小さな港から船を出す。船と云っても大人が一人か二人しか乗れない小型ボートだ。漁師たちの数もそれほど多くはないので、各自で準備をして港から出てゆく。漁師仲間がいれば天気や時化(しけ)の様子はどうとかそいうった細々とした情報を交換している。それでも彼らは手を休めず、(当然だけれど)長話はしない。漁師たちが居なくなってしまうと今度は、町のその他の人間たちが車のエンジンを点けて動き出す。漁業以外の仕事を持つ者たちは、ここから数十分の場所にある職場に向かって通勤している。やはりこちらも船と同様に小型車が中心だ。当たり前だけれどプリウスなんて一台も通ってやしない。その頃になってようやく陽が昇ってくると今度は、人間以外の小さな生き物たちが目覚め始める。山あいで鳴く蝉や鳥たちの合唱を聞いて、僕は散歩しながらこれら一連の小さな海辺の町の営みを眺めている。その間も海は絶え間なく波を寄せては引いてを返している。台風一過の今日は午後から晴れる見通しで暑くなりそうである。海辺の突堤に建てられた小さな灯台が点すサファイア色の光は今では弱々しくなってきている。ジェイ・ギャツビーになった気分をしばし味わう_



♯3「移住者、大いに語る。①」

「四十歳を過ぎた辺りから東京を離れてどこか海の見える場所で静かに暮らせればなあと考えてきました。そして、六十歳の定年を迎える一年前から次の住処を探し始めました。こちらの海辺の町に巡り会ったのはある映画作品のロケ地として使われたのを知って、実際に訪れてみようと思ったのがきっかけです。」_ 海が好きで昔からヨットだけはやってきたと語る男性のご自宅には仲間たちと一緒に写ったヨットレースの写真やロープの結び方見本が飾られており、自宅の前には手漕ぎ用ボートがシートに包まれた状態できちんと管理されてある。海が穏やかな時にはそのボートに乗って自然を満喫しているという。お話しを聞いていると本当に悠々自適な生活を送っていらっしゃるのがこちらにも伝わってくる。男性のご自宅を訪れたのは、I・Uターンでこの鵜鷺(うさぎ)エリアに移住して来られた方々のお話しを聞くという今回のプログラムの一つでちなみにこの男性の場合は I ターンに当たる。僕は東京を一度も出たことがなかったから、この男性のお話しを興味深く聞かせてもらった。「田舎は何もないと云われるんだけれど毎日、結構色んなことが次々に起こって新鮮な気持ちで過ごさせてもらっています。」という言葉はとりわけ心に残った_



♯4「呪いのような彼女の一言。」

鵜鷺(うさぎ)エリアは島根半島の西端に位置している(出雲大社から一山越えた北側に位置している)。日本海側に面したこの海辺の町はもともと、鵜峠(うど)地区と鷺浦(さぎうら)地区を合わせて、鵜鷺(うさぎ)地区と呼んでいる。まわりを山と海に囲まれた小さな漁村である。石見銀山よりもはるか昔に銅が掘られて、その物資輸送で栄えたこの漁村もいまでは過疎化が進んで人口が激減してしまった(現在は、240人しか村人が残っていない)。それでも、美しい自然と古い町並みそして静けさが残っている場所だ。僕がこの海辺の町に興味を持ったのは、以前にこの町を訪れたことがあるパートナーの一言がきっかけだ。「山(前回、僕が訪問した奥出雲町のことだ)も良いけれど、住むんだったらこの海辺の町がいいわよ。」_ 彼女の話によるとこの海辺の町には、イタリアのシチリア島も顔負けの『青の洞窟』が存在するらしく冒険家(自称)の僕としてはその絶景をこの目で見てみたいと思ったわけです(その他にこの海辺の町には閉校した小学校を再利用したコミュニティ・センターが在ったり、近海の出雲沖の海水を汲み取って藻塩を作っていたり、農薬を一切使わない炭素循環農法で作物を作っているとあとで知るわけです)。



♯5「移住者、大いに語る。②」

「この鷺浦の山中では、ミツバチを預かっているんですわ。外国でも農薬散布が原因でミツバチが消えたとえらい騒いでおりますが、この島根でも養蜂家の方から連絡がありまして。害虫駆除の薬剤からミツバチを守りたいと巣箱を40箱くらい預かったわけですわ。」_ 山あいを力強く睨みながら熱く語るのは鵜鷺地区を盛り上げようと自治会を管理されている男性(この方はUターン移住者)。聞けばこの山中はその昔、銅山があり多くの鉱夫が携わっていたらしい(山あいの一部は銅山の鉱毒でいまでも木の成長がないのが判るのだが、現在は農薬散布を行っていないためミツバチを預かれる環境が整っている)。説明を受けながらその後この男性が『実験場』と称している山中の畑を見学させてもらったのだが、何でも農薬を一切使わない方法(炭素循環農法)で作物を育てているとのこと。「急斜面の山中を削って作っておるでなあ、なかなか骨が折れるわけですが。それでも今年はほれ、こうして柿や栗、あと桃や蜜柑などが実をつけております。ただ、この畑では鹿が出るんでその対策も考えねばならない。(動物も含めて)自然が9割、人間が1割ですから仕方ないと云えば、仕方ないのですがね(大笑い)。」_ なるほど、の一言である。



♯6「サンチャゴ老と権現さん。 」

台風11号(ナンカー:マレーシアの果物の名前)が去った後の出雲沖は予想していたより波は高くなかったがそれでも時折、波に乗り上げると船底を叩くように大きな音が鳴った。そのたびに僕は舳先に置いた鞄が海に放り出されないか肝を冷やした。午後二時、僕は海辺の町の沖合にいた。小型ボートを運転するのは、先ほど山中で大笑いしていた老師だ。老師は船の舵を取りながら時々、潮目を見て移動ルートを変更した。山中でも覗かせたその厳しい眼差しは、ヘミングウェイの『老人と海』に出てくる老漁師:サンチャゴの姿を彷彿とさせた。そんな僕の思いを他所にサンチャゴ老は沖合の島、『柏島』についてやはり熱く語るのである。地元の漁師たちが毎年、豊漁を願って沖合に船を出し船旗を立てて柏島に祀られている「権現さん」に祈念の手を合わせるらしい(今年は7月31日に祭りが開かれるとのこと)。そして小型ボートのエンジン音が突然、弱くなる_ 『青の洞窟』に着いたのだ。島根半島の入江は複雑に出来ているのでこうした洞窟がたくさん存在する。サンチャゴ老がゆっくりと船を進める。洞窟の暗闇の先に天上から一筋の光が差している。目の前に現れたのはエメラルドグリーン色に輝く水面だった_



♯7「大団円、そして_ 」

「海辺の町の田舎暮らし体験」。最期は参加者と運営スタッフ、そして地元の方々と感想タイムが持たれた。最終日の朝、僕はもう一度、この海辺の町を目に焼きつけておこうとこっそり宿を抜け出して_大体、毎朝4時に目が覚めた_海辺の通りから船着き場、古民家から神社までぐるりと散歩して巡った。途中、中型犬に吠えられたり、やはり漁師の方に会って挨拶をしたりとひっそりと始まる一日を身体で感じていた。僕が去ったあともこの町の日々の営みはつづいてゆくのだなあと思った(その時は気がつかなったのだけれど、あとで奇妙な出来事が起こる)。そして、昭和10年に地元の人たちが手掘り作ったというトンネルを通って町から小学校(コミュニティ・センター)へ移動した_ 小学校では皆が思い思いの感想を述べ合った。島大生の一人は別れが惜しいのか顔を伏せて泣いていた。感極まる中、感想タイムの最後を僕が締めることになった。特別なコメントを残すつもりはなかったけれど素直に、迎え入れてくださった地元の方々や今回のプログラムを組んで温かいおもてなしをしてくださったスタッフの方々に感謝の言葉を贈った。こうして、僕の《巡礼の旅》は終った。そして_



♯8「白ウサギを追いかけて。」

翌朝、深夜高速バスで東京に戻ってきた僕は、渋谷マークシティの屋上階に降り立っていた。おぼつかない足取りで地下鉄の入口に向かう。ハチ公の銅像前を通りがかった時にスクランブル交差点とその上空を横目でなんとなく見やる_ 『情報』が雨降りのように注いでいた。それはまるで近未来を描いた映画のようにソースコードとして降り注いでいた。大型ヴィジョンで新曲を唄うアイドルも、新機種が登場する携帯電話のバルーン広告も何もかもが緑色の数字のプログラムコードで出来ているように見えた。無音で降り注ぐ『情報』のシャワーを浴びながら、僕は足早に地下鉄の入口へと急いだ_ その二日後、僕は奇妙な出来事に遭遇する。仕事場のパソコンを立ち上げた後、何となくまわりの人間のテンポと合ってないことに気がつく。不思議に思った僕はパソコンのディジタル時計のカウンターと身につけていた腕時計の秒針を確認する。パソコンのカウンターは12時30分を表示している。出発前の金曜日の夜に合わせた僕の腕時計は12時18分を差していた_ 呆然と立ちすくむ僕のすぐ側をチョッキを着た白ウサギが忙しそうに走り抜けたのが見えた。

[了]


この物語は基本的にフィクションです。