2014年11月24日月曜日

『インターステラー』で超えたかったもの。

長い人生の中で、紆余曲折を経て生きていると、「このお店は自分にとって居心地が良いな」「この食材は自分の身体と相性が良いな」_ そういうことが自然と解ってきます。これは数々の失敗を重ねながら、経験値として身についてくる「個人的な資質」のようなものです。そのような「個人的な資質」を裏づけている価値観とは、対象について全幅の信頼を置くことが出来るかどうかだと思います。要するに、「この人の云っていることは信用しても良いかな」という安心感です。対象が人物の場合、僕は高城剛氏の未来にまつわる予言を参考にしています。それが作品の場合、僕は村上春樹氏の紡ぎ出す小説を積極的に読み込んでいます。

同じ理由で作品が公開されるとすぐに、わざわざ劇場まで出かけて観に行く映画監督がいます。クリストファー・ノーランがその一人です。つい先日も、彼の最新作『インターステラー』が公開されたのでネットで事前に良い席をシート・リザーブして(映画鑑賞する時は余計な心配をしたくない性格なので)、都内の劇場に足を運びました。ちょうど連休の中日ということもあって場内はとても混んでいたのだけれど、僕ら(僕とパートナーだ)はスマートにチケット発券を行い、上映時間前に所定の席に座ってスクリーンを目の前にしていました(ここがポイントなのだけれど、「個人的な資質」を維持するのにはそれ相応なりの集中力が必要になってくる)。

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それで、いざ映画鑑賞に臨んだのは良いのだけれど、物語の[前半]は長々とある一家の生活が描かれているだけで一向にSF映像が出てこない_ まだ、この作品を観ていない方にかいつまんであらすじを申し上げておくと、劇的な環境変化によって砂埃が吹き荒れ、農作物は枯渇し、深刻な食糧不足に見舞われた近未来の地球が舞台となっている設定で、地球の寿命が尽きかけようとする中、アメリカの田舎町で暮らすある一家(父、娘、息子 etc.)の家で不可解な現象が起きるところから物語は始まります。マシュー・マコノヒー演じる主人公の父親(クーパー)が元パイロットで、地球の存亡を懸けて宇宙の果てにある新天地を探すという内容なんだけれど。

ノーラン作品の信者の僕としては、余計な予備知識を持たずに鑑賞に臨んだのだけれど(予告編だけは見た)。アメリカの片田舎で暮らす一家のシーンが長々と続いて正直、「おい、そろそろ宇宙船とか出てこないと不味いだろう。さっきから、ずっとコーン畑ばかり映っているだけだぜ。」と心配になってきた。あとで調べて判ったのだけれど、この作品は上映時間が169分もあって「尺的」には十分余裕があったらしい。でも、予告編で美しい宇宙空間が映っているのを確かめていた僕としては、まさか「牧歌的な一家の生活」を眺める羽目になるとは想像してもいなかった(でも、実はこの「牧歌的な一家の生活」が物語の『肝』になってくるわけです)。

そして、物語の[後半]になってようやく宇宙船や美しい宇宙空間が登場するわけですが、[前半]のカントリー・タイムが長く感じられたのとは反比例するように、[後半]のギャラクシー・タイムは物語の進み方が早く感じられるのです。「早く感じられる」という表現はちょっと違うかもしれない。正確には、「時間の在り方そのものが揺らいでくる」と云った方が良いかもしれない。主人公(クーパー)たちが、「恒星間航行(インターステラー)」する為にワームホールと呼ばれる「時空の穴」を利用して光速で移動したように、この物語の進行スピードが加速度的にアップしているように感じられて(僕はこの辺の演出がノーラン作品の妙だと思う)。

そして物語の[後半]から、その驚異的な展開に文字通り僕は開いた口が塞がらなくなり、クライマックス間際には自然と身体が震え出し、無意識のうちに両手で顔を覆って泣き始めていました。クライマックス間際で知ったある『新事実』の映像に僕はもう翻弄されてしまったのです。こういう事を書くと、大袈裟だなとか思われそうだけれどその瞬間、僕は「神」に出会ったもしくは、限りなく近づいたような感覚の中にいました。宗教的な、いわゆる俗世の「神(=教祖)」ではなくて、純粋な意味での「神(=万物の創始者)」です。映画を観ながら身体が自然に反応して号泣するなんて、後にも先にもこれが生まれて初めての体験でした(いや、本当の話)。

作品の内容を語り過ぎるといわゆる、「ネタばらし」になってしまうので控えるけれど。物語の設定や整合性を保つ為、この作品では製作総指揮に理論物理学者のキップ・ソーン博士を招いているのだけれど(ソーン博士の名前は以前に観た映画『コンタクト』(ジョディ・フォスター主演のSF映画ね)で知っていた。彼はこの映画の中でも理論物理学の観点から相談役として協力していた)。その効果もあってアインシュタインの「相対性理論」に対する落としどころが絶妙のアクセントになっています。たとえば、「恒星間航行(インターステラー)」をするとパイロットの時間の進み方は遅くなり、地球で過ごしている人びとと年齢差が生じてしまう場面を作ったりしているところとか。

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それで、ここからがこのエッセイの『肝』なんだけれど(何とかかんとか、僕も「伏線」を張りながら物を書いているわけですが)、クリストファー・ノーラン監督はこの作品で「(映画としての)『娯楽の枠組み』を超えてしまったのではないか?」_ というのが僕の見解です。それは、主人公(クーパー)たちがワームホールを利用して前人未到の別銀河系に到達したように、ノーラン監督はこの作品を通じて「恒星間航行(インターステラー)」を目指したのではないかというのが僕の仮説です。今や瀕死の状態にあるハリウッド映画界を救うため、「(映画界のための)新しいフロンティア(新天地)を見つけたよ」と知らせているように感じたわけです。

高城剛氏は、生きた情報の取得方法として「ネットやSNSから離れよ、足を使ってその目で見よ」と説きます。村上春樹氏は、個人がシィステムに対抗する手段として「物語という乗り物」を作品を通じて提供しています。ノーラン監督は、我々が直面している様々な困窮を解決する装置として「冒険に出よ、そしてその道しるべは我々の身の内にある『愛』(今作をご覧になった方ならばもうお解りですね)が指し示してくれる」と語りかけているわけです_ 冒頭で述べたように、「この人の云っていることは信用しても良いかな」と思ってくれる人が少しでもいたら、週末に大切な人を誘って劇場に足を運んでみてはいががでしょうか? もちろん、チケット・リザーブすることはお忘れなく。

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後述付記

この映画を観終えた後に、ノーラン監督のインタビュー記事や出演者や製作陣たちの証言を読んで、いろいろ調べてみたのだけれど。ノーラン監督は撮影テイク数が極端に少ないらしく、『インターステラー』も驚異的なスピードで制作が進んでいったようです。僕はこの事実を知って、「ああ、だから不思議と鑑賞者の心と共振するのだな。」と確信しました。また、ご存知の方も多いと思いますが、ノーラン監督はほとんどCGに頼らず実写で撮影を行うことで有名です。今回も、宇宙船は実物大で作ったり新天地の惑星シーンもオールロケで制作されています。そうすることで、画面に《説得力》を与えているのです。ここで勘違いしないでほしいのが、「決してリアリティーを求めているのではない」ということなんです。通常、画面に《リアリティー》を追求しようとすれば、『ゼロ・グラビティ』のようなCGを用いればいいだけの話です(あの作品も別の観点から云えば、トンデモく出来栄えの良い映画でしたね)。でも、ノーラン監督は全く違う。とにかくパッパッと撮っていく、それでその素材は全て手作りしてゆく。表現は悪いけれど俳優の演技もセットも画面も、よく見ればまだ「荒削り」なんですね。でも、それが何故か我々、鑑賞者には受けている。どうしてだろう?

要するに、これは「揺らぎの一種」なんだと僕は思います。小説のジャンルで云えば、いわゆる「純文学」に当たるわけです。つまり、ハリウッドのCG映画に比べれば「エンターテイメントしていない」けれど、しっかり「純文学」しているわけです。ばっちり作り込まれたハリウッドのCG映画よりも、ノーラン監督の手作り映画の方が「ヒューマニズム」を感じるということなんでしょう_    数年前に宮崎駿監督が、『「神経症の時代」におくる映画(崖の上のやつです)』を作りましたがあの時もやはり、CG制作は控えてほとんど手描きで作品を仕上げました。要するに、我々の感受性というのは人間が感知出来る範囲まで、つまり身体性の限界の中までで。その範囲を超えると「味気ない」のだなあということなんですね。僕は実はそのことに数年前から気がついていて、実は絵を描くことについては「アナログ絵画」にこだわっています。ディジタル絵画が「味気ない」と言っているわけではありません、ただアナログ絵画には鑑賞者の心の共振を起こすパワーが秘めらていると信じているだけです。『インターステラー』っていう映画は、そういう意味で僕にとっては親和性の高い作品なんです。勇気づけられると云っても良いかもしれない。まあ、マイケル・ベイ監督の『トランスフォーマー』シリーズも好きですけれどね。




2014年11月16日日曜日

21世紀の「乗り物」たちについて

先日、生まれて初めて「カーシェアリング」を利用して都内を運転してみたのだけれど、久しぶりにクルマを運転したこともあってなかなか有意義な時間を過ごした。我が家はいわゆる「自家用車」を所有していないので、クルマでどこかへ出かけようとする時は駅前でレンタカーを借りるかもしくは、隣町に住んでいる僕の両親に頼んで彼らが所有している「顔つきの悪いクルマ」(本当に悪者っぽい)を借りることになる。別の隣町に住んでいる弟夫婦も僕らと同じように、実家のその「顔つきの悪いクルマ」を借りているらしく時々、両親から「悪いわね、すでに先約が入っているわよ。」とぶっきらぼうに断られることがある。要するに、家族間で1台のクルマを「カーシェアリング」しているのだ。

「自家用車」を所有こそしていないけれど、僕の運転歴はそこそこ長くて実は20年のベテランドライバーである。ほとんど都内を中心に走っているだけだけれど、初めて行く場所でもカーナビゲーションなんかに頼らず大体は目的地に辿り着ける(逆に郊外は苦手だったりする)。渋谷駅前の坂道を下りながら渋滞で道が混雑していても、「あと10分くらいで紀尾井町にある本屋に到着できるな。」「青山界隈を寄り道して街の様子も少し眺めてみよう。」_ シグナルランプに気を配りながら、小気味よくステアリングを切っているとアーバン・ドライバーとしての血が沸々としてくる。浮世離れした生活をつづけている僕だけれど、車窓に映る街の景色を眺めていればその時代の大抵のことは解る。

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乗り物で思い出したけれど先月末、イギリスの富豪でリチャード・ブラウン氏が率いる宇宙旅行会社「ヴァージン・ギャラクッティック」の宇宙旅客機がテスト飛行中にトラブルを起こして墜落したニュースを耳にした。墜落した宇宙旅客機「スペースシップ・ツー」は乗客を地上約100kmまで輸送して、数分間の無重力体験をする「宇宙旅行」が売り物で早ければ来年から就航が予定されていたけれど、今回の事故を受けてスケジュールの変更を余儀なくされそうである。人類史上初の「宇宙旅行」実現にはまだまだ課題がありそうだけれど、ちなみにこの「宇宙旅行」にかかる費用は25万米ドル(約2,500万円)で滞在時間は4分間、日本からも数十名のエントリーがあり僕もこの旅行には高い関心を寄せている。

宇宙旅客機はまだ乗ったことはないけれど、従来の航空機なら何度もお世話になってきた。僕の周りではご存知の方も多いと思うけれど、以前に勤めていた出版社では仕事の関係でそれこそ毎月全国各地を飛び回ってきた。忙しない時は毎週羽田空港に通っていた時期もあるけれど、乗り物として心地良いなと思ったことは一度もない。その代わり、僕は飛行機での移動時間を「瞑想する」のによく当てていた。ちょうど昨年の今頃も、札幌で仕事を済ませたあとその足で千歳空港に向かい、羽田空港行きの航空機に搭乗して東北地方の上空を飛びながら、翌日に参加を控えたマラソン大会のことを考えていた。他の乗客が機内サーヴィスを受ける中、アイマスクを付けてイメージトレーニングを重ねていた。

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考えてみたらこの10年間、ほとんど移動しっぱなしの人生を歩んできた。もともと出不精な性格の持ち主だったので勤める会社も人事異動などで全国にある支店に転勤が発生しない職場を慎重に選んできた(これについては東京生まれの東京育ちの方なら少しは理解してもらえるかもしれないけれど、生粋の都市生まれ・暮らしの人間にはどうも「別の場所で暮らしてみよう」という考えがすっぽりと抜け落ちてしまう傾向があるみたいです)。でも、ふと気がついたらどういうわけか人一倍移動しつづける人生に浸かっていた。都内にある出版社に勤めているのに僕だけが会社の中で「不在」にしていることが多かった。会社を辞める直前に計算してみたら今までの総移動距離は15万km(地球3周半)に達していた。

移動する交通手段は前述の航空機もその一つだけれど、同じくらい利用してきた乗り物はやはり列車で新幹線はあらゆるタイプを乗ってきた(その中でも九州新幹線の「つばめ」は車内装飾が和風モダンで記憶に鮮やかに残っている)。もちろん、それだけでなく乗り継ぎで利用してきた全国各地のローカル列車も数えきれない。僕は世の中で云うところの「鉄道オタク」ではないのだけれど、ローカル列車一台とってもそこにはその土地の哲学が反映された乗り物なのだなと感動することが何度かあった。そういう意味では、僕は航空機よりも列車で移動する方が実は好きだったのかもしれない(それを裏づける理由になるかどうかわからないけれど、列車で移動している時はよく新しいアイディアが浮かんできた)。

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僕たちに正確な未来予想を求めるのは難しいけれど時代の反映に合わせてこの先、便利で快適な乗り物が登場することだけは誰もが想像つくだろう。その中でも、未来の代表的な乗り物として挙げられるのが2027年に開業を予定している「リニアモーターカー」だ。最速時速500km台で東京〜名古屋を最短40分で結ぶというのだから驚くばかりである。たとえば、ガールフレンドと代官山で食事して別れたあと、1時間後には別の友人と栄で手羽先を肴に飲んでいるなんてことも当たり前になってくる。この感覚はもはや、「どこでもドア」に近いのではないかと思う。でも、そういう四次元ポケットから出てくる「未来アイテム的な感覚」がすぐ目の前までやってきているのも夢物語でなく現実だったりする。

最終的に時速500kmとか600kmの乗り物から眺める「『世界の車窓』の景色は何色だろう?」か。その爆発的な速度の中で人びとはどのような新しいアイディアを思いつくのだろう? もしかしたら、一切何も思いつかないのかもしれない。圧倒的な移動感覚に人びとは痺れて、我を忘れてしまうかもしれない。そうなった時、「哲学のあるローカル列車」が逆襲できるだけの体力を残しているかはまったくもってわからない。「ファスト・ヴィークル(乗り物)」が増えつづけた結果、僕たちは何を得て失うのかもう一度考えてみてほしい_ 目下、僕の最良の移動手段は「自転車」である。雨降りを除いて毎日仕事場を行き来するのに不自由はないし、何より「自転車」は今のところ「21世紀の最高の『瞑想マシン』」なのだ。

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後述付記

「乗り物」について一つ物を書いてみようと思ったのは冒頭でも触れましたが、久しぶりにクルマを運転したのがきっかけだったのだけれど、実際のところは「ほとんど移動しっぱなしの人生」から距離を置いてゆっくりと物を考えられるようになるまで、このくらいの時間(半年間)がかかったというのが事実です。僕にとって移動そのものが日常であって、移動していないことは非日常だったわけです。そう思っていたら、前述の東北地方の上空を飛んでいる時にふと「そろそろ、こういう生活とも片を付けないとな。」と感じたわけです。その翌日、僕はマラソン大会で完走できたら会社を辞めようと心に決めて走りました。そして、さらにその翌日には、辞職願いを会社に提出していました。

これも実際に計算してみて判ったことなのですが通常、都内の会社で働く勤め人が毎月20〜23日くらい職場のデスクに向かうのに対して、僕の場合は毎月10〜12日くらいしか会社に居なかったわけです。これは要するに何を意味しているのかというと、自分の所属しているパラダイムにコミットする時間が極端に少なかったわけです。必然的に別のパラダイム(当時、マネージメントの協力をしていた絵本屋がそれに当たる)に関わる時間が相対的に増えていきました。この話については後日、改めて「働き方」をテーマにまとめてみたいと思っています。とにかく、僕にとって「乗り物」(=移動)というのは「物を考えるための手段」だったということが少しは解ってもらえたかと思います。

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それと極めて個人的な所感なのでここでは書くまいと思っていたのだけれど、やはり思い直して告白しておくと僕は個人的には今後も「自家用車」を率先して所有することはおそらくないと思う。話すと長くなるので詳細は割愛するけれど、数年前に偶然、他人が起こした自動車事故に遭遇したことあって、下敷きになった子どもを救出したことがあった。目の前で起きた交通事故だったから心的ストレスは大きくて、それ以降、僕は「クルマを取り巻く社会」と関わりを持つのを遠ざけるようになってしまった。もちろん、クルマそのものやドライブすることは今でも好きだけれど、都市環境のことを考えると僕はこの先、水上バスや自転車といったエコロジカルな「スロー・ヴィークル」を推薦していきたい。

そして、最後に付け加えさせてもらえるならば、「乗り物」は何もカタチが無くても良いと僕は思っています。たとえば『物語り』という名の「乗り物」は、僕たちを別の場所へと運んでくれます。スタティック(静的)なエゴを『物語り』という名の「乗り物」に沈めることによって、A地点からB地点というポイントまでスムースに運んでくれるわけです。僕はこのカタチの無い「乗り物」を「サイレント・ヴィークル」と名付けていますが、これが21世紀の真の「乗り物」だと確信しています。『物語り』のモーメントは地味だけれど、一度身を預けてしまえば自動的に目的地まで引っ張ってくれる力強さを持っています。その力強さは宇宙旅客機よりもクールでリニアよりも新感覚に富んでいるかもしれません。