同じ理由で作品が公開されるとすぐに、わざわざ劇場まで出かけて観に行く映画監督がいます。クリストファー・ノーランがその一人です。つい先日も、彼の最新作『インターステラー』が公開されたのでネットで事前に良い席をシート・リザーブして(映画鑑賞する時は余計な心配をしたくない性格なので)、都内の劇場に足を運びました。ちょうど連休の中日ということもあって場内はとても混んでいたのだけれど、僕ら(僕とパートナーだ)はスマートにチケット発券を行い、上映時間前に所定の席に座ってスクリーンを目の前にしていました(ここがポイントなのだけれど、「個人的な資質」を維持するのにはそれ相応なりの集中力が必要になってくる)。
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それで、いざ映画鑑賞に臨んだのは良いのだけれど、物語の[前半]は長々とある一家の生活が描かれているだけで一向にSF映像が出てこない_ まだ、この作品を観ていない方にかいつまんであらすじを申し上げておくと、劇的な環境変化によって砂埃が吹き荒れ、農作物は枯渇し、深刻な食糧不足に見舞われた近未来の地球が舞台となっている設定で、地球の寿命が尽きかけようとする中、アメリカの田舎町で暮らすある一家(父、娘、息子 etc.)の家で不可解な現象が起きるところから物語は始まります。マシュー・マコノヒー演じる主人公の父親(クーパー)が元パイロットで、地球の存亡を懸けて宇宙の果てにある新天地を探すという内容なんだけれど。
ノーラン作品の信者の僕としては、余計な予備知識を持たずに鑑賞に臨んだのだけれど(予告編だけは見た)。アメリカの片田舎で暮らす一家のシーンが長々と続いて正直、「おい、そろそろ宇宙船とか出てこないと不味いだろう。さっきから、ずっとコーン畑ばかり映っているだけだぜ。」と心配になってきた。あとで調べて判ったのだけれど、この作品は上映時間が169分もあって「尺的」には十分余裕があったらしい。でも、予告編で美しい宇宙空間が映っているのを確かめていた僕としては、まさか「牧歌的な一家の生活」を眺める羽目になるとは想像してもいなかった(でも、実はこの「牧歌的な一家の生活」が物語の『肝』になってくるわけです)。
そして、物語の[後半]になってようやく宇宙船や美しい宇宙空間が登場するわけですが、[前半]のカントリー・タイムが長く感じられたのとは反比例するように、[後半]のギャラクシー・タイムは物語の進み方が早く感じられるのです。「早く感じられる」という表現はちょっと違うかもしれない。正確には、「時間の在り方そのものが揺らいでくる」と云った方が良いかもしれない。主人公(クーパー)たちが、「恒星間航行(インターステラー)」する為にワームホールと呼ばれる「時空の穴」を利用して光速で移動したように、この物語の進行スピードが加速度的にアップしているように感じられて(僕はこの辺の演出がノーラン作品の妙だと思う)。
そして物語の[後半]から、その驚異的な展開に文字通り僕は開いた口が塞がらなくなり、クライマックス間際には自然と身体が震え出し、無意識のうちに両手で顔を覆って泣き始めていました。クライマックス間際で知ったある『新事実』の映像に僕はもう翻弄されてしまったのです。こういう事を書くと、大袈裟だなとか思われそうだけれどその瞬間、僕は「神」に出会ったもしくは、限りなく近づいたような感覚の中にいました。宗教的な、いわゆる俗世の「神(=教祖)」ではなくて、純粋な意味での「神(=万物の創始者)」です。映画を観ながら身体が自然に反応して号泣するなんて、後にも先にもこれが生まれて初めての体験でした(いや、本当の話)。
作品の内容を語り過ぎるといわゆる、「ネタばらし」になってしまうので控えるけれど。物語の設定や整合性を保つ為、この作品では製作総指揮に理論物理学者のキップ・ソーン博士を招いているのだけれど(ソーン博士の名前は以前に観た映画『コンタクト』(ジョディ・フォスター主演のSF映画ね)で知っていた。彼はこの映画の中でも理論物理学の観点から相談役として協力していた)。その効果もあってアインシュタインの「相対性理論」に対する落としどころが絶妙のアクセントになっています。たとえば、「恒星間航行(インターステラー)」をするとパイロットの時間の進み方は遅くなり、地球で過ごしている人びとと年齢差が生じてしまう場面を作ったりしているところとか。
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それで、ここからがこのエッセイの『肝』なんだけれど(何とかかんとか、僕も「伏線」を張りながら物を書いているわけですが)、クリストファー・ノーラン監督はこの作品で「(映画としての)『娯楽の枠組み』を超えてしまったのではないか?」_ というのが僕の見解です。それは、主人公(クーパー)たちがワームホールを利用して前人未到の別銀河系に到達したように、ノーラン監督はこの作品を通じて「恒星間航行(インターステラー)」を目指したのではないかというのが僕の仮説です。今や瀕死の状態にあるハリウッド映画界を救うため、「(映画界のための)新しいフロンティア(新天地)を見つけたよ」と知らせているように感じたわけです。
高城剛氏は、生きた情報の取得方法として「ネットやSNSから離れよ、足を使ってその目で見よ」と説きます。村上春樹氏は、個人がシィステムに対抗する手段として「物語という乗り物」を作品を通じて提供しています。ノーラン監督は、我々が直面している様々な困窮を解決する装置として「冒険に出よ、そしてその道しるべは我々の身の内にある『愛』(今作をご覧になった方ならばもうお解りですね)が指し示してくれる」と語りかけているわけです_ 冒頭で述べたように、「この人の云っていることは信用しても良いかな」と思ってくれる人が少しでもいたら、週末に大切な人を誘って劇場に足を運んでみてはいががでしょうか? もちろん、チケット・リザーブすることはお忘れなく。
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後述付記
この映画を観終えた後に、ノーラン監督のインタビュー記事や出演者や製作陣たちの証言を読んで、いろいろ調べてみたのだけれど。ノーラン監督は撮影テイク数が極端に少ないらしく、『インターステラー』も驚異的なスピードで制作が進んでいったようです。僕はこの事実を知って、「ああ、だから不思議と鑑賞者の心と共振するのだな。」と確信しました。また、ご存知の方も多いと思いますが、ノーラン監督はほとんどCGに頼らず実写で撮影を行うことで有名です。今回も、宇宙船は実物大で作ったり新天地の惑星シーンもオールロケで制作されています。そうすることで、画面に《説得力》を与えているのです。ここで勘違いしないでほしいのが、「決してリアリティーを求めているのではない」ということなんです。通常、画面に《リアリティー》を追求しようとすれば、『ゼロ・グラビティ』のようなCGを用いればいいだけの話です(あの作品も別の観点から云えば、トンデモく出来栄えの良い映画でしたね)。でも、ノーラン監督は全く違う。とにかくパッパッと撮っていく、それでその素材は全て手作りしてゆく。表現は悪いけれど俳優の演技もセットも画面も、よく見ればまだ「荒削り」なんですね。でも、それが何故か我々、鑑賞者には受けている。どうしてだろう?
要するに、これは「揺らぎの一種」なんだと僕は思います。小説のジャンルで云えば、いわゆる「純文学」に当たるわけです。つまり、ハリウッドのCG映画に比べれば「エンターテイメントしていない」けれど、しっかり「純文学」しているわけです。ばっちり作り込まれたハリウッドのCG映画よりも、ノーラン監督の手作り映画の方が「ヒューマニズム」を感じるということなんでしょう_ 数年前に宮崎駿監督が、『「神経症の時代」におくる映画(崖の上のやつです)』を作りましたがあの時もやはり、CG制作は控えてほとんど手描きで作品を仕上げました。要するに、我々の感受性というのは人間が感知出来る範囲まで、つまり身体性の限界の中までで。その範囲を超えると「味気ない」のだなあということなんですね。僕は実はそのことに数年前から気がついていて、実は絵を描くことについては「アナログ絵画」にこだわっています。ディジタル絵画が「味気ない」と言っているわけではありません、ただアナログ絵画には鑑賞者の心の共振を起こすパワーが秘めらていると信じているだけです。『インターステラー』っていう映画は、そういう意味で僕にとっては親和性の高い作品なんです。勇気づけられると云っても良いかもしれない。まあ、マイケル・ベイ監督の『トランスフォーマー』シリーズも好きですけれどね。

