「それから」と運転手はルームミラーに向かって言った。
「ひとつ覚えておいていただきたいのですが、ものごとは見かけと違います」
『1Q84』 BOOK1 <4月-6月>
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「出雲サングラス」
仮住まいの家の鍵を閉めてから数時間。こんな巨大な建造物が人気のない海岸沿いに乱立していることが不思議でならなかったけれど、それよりも僕がどのようにしてここに辿り着いたのかが不可解でならなかった。しばらくの間、僕はその巨大な建造物をサングラス越しに眺めていた。唖然としたまま口も開いていたと思う。いつまでもこうしていられないなと我に返って辺りを見回したけれど、国道9号線沿いの海岸には文字通り人一人誰もいなかった。でも、ここがおそらく『京都』でないことは、目の前の風車を見れば一目瞭然だった。「やれやれ……先が思いやられるなあ。」_ 一先ず僕は車のキーを回してエンジンを温め直した。カーステレオからリストの『リゴレット・パラフレーズ』が軽快に流れ始めた。
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「出町ピープル」
そのカフェ・バーに到着したのは23時過ぎで僕の泊まっていたホテルからタクシーで15分ほどの距離にあった。その日は市内に住んでいるクライアントに作品を納めに出かけたり、県外のギャラリーに足を運んだりと忙しい一日だった。ホテルにチェックインしたのは夜の遅い時間で、そこから熱いシャワーを浴びてぐっすり寝てしまおうとも思ったけれど、執筆の仕事の件で僕のエージェントから加筆を求められていたので、大人しく原稿に手入れを行っていた。ブンガクから携帯電話に連絡が入ったのは原稿の推敲をしている時で、「会わせたい人がいるので急いでこの場所に来てほしい。」と指定場所らしき店の名前とリンクが貼ってあった。ここからそれほど遠くない距離だ_
_原稿の締切りは今日いっぱいだったけれど、このタイミングで彼が「急いで来てほしい。」と云ってきているということは、おそらく急を要することなのだろう。もしかすると僕の個展の準備に関係することかもしれない。僕は頭の中で素早く計算して書きかけの原稿のデータをパソコンに保存した。それからエージェントに向けて短いメッセージをメールで送った。帰って来てからでも原稿は間に合うだろう。それから部屋の電話からフロントに連絡してホテルの玄関にタクシーを一台呼んでもらった。移動中、クタクタの身体をシートに沈み込ませながら僕は京都の町の夜景をじっと眺めつづけていた。その間、車内のFMラジオから坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』が流れていた。
「ー申し訳ないね、お待たせして。」_ 店の入口付近にいたブンガクを見つけて声をかけたあと、僕はカウンターの中にいた着物姿の女性にビールを注文した。着物?_ よく見ると店内はたくさんの常連客で賑わっていた、地元の住人たちだろうか皆申し合わせたように飲み物を片手に陽気に談笑していた。お世辞にも広いとは云えない店内を見回しながら呆気にとられている僕に向かってブンガクが「間に合って良かった。」と声をかけてきた。彼は安堵の表情を見せて傍らにいた端正な顔立ちの男性を紹介した。案の定、個展の準備に関係した人物だった。僕らはひとしきり情報交換をした。どんな仕事をしてきて今はどんなことに興味があるのかとか、酒場で交わすフランクな会話だ。
ビールが運ばれてきた時、入口の扉が閑かに開いて一人の女の娘が入ってきた。艶やかな黒色の髪と瞳を持った女の娘だった。僕は彼女のためにスペースを確保してあげた。「こっちが空いているよ。」_ 彼女は声に出さずに口のかたちだけで、ドウモアリガトウと云った_ その後も僕はブンガクを通じて京都の「カラフルな人びと」を紹介してもらった。地元のラジオ局に勤める女性や学生をしながら事業家として活動する男の子など_ 僕は彼らと談笑しながら適当なところでそっと店の外に出た。そして火照った身体を冷ますように空を仰いだ。店内から漏れる愉しそうな声がこだまして、それが耳に心地よかった_
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「三条ディスコティック」
気がつくと店内は僕たちが来た時よりも混雑していた。席に座る者、立っている者、これから演奏するバンドマンも皆それぞれにお気に入りの飲み物を片手に談笑し合っていた。そこは京都界隈でも比較的シックなライブハウスで狭いという者もいれば、適当だという者もいた。僕自身はライブハウスという場所にほとんど行ったことがなかったけれど「こんなものかな。」と思いながらカウンター席で演奏が始まるまでの間、よく冷えた(ノンアルコール)ビールを片手に煙草を吸っていた。次のバンドが今夜のトリらしい。僕はブンガクに誘われるままこの『箱』に連れて来られたけれど気分は悪くなかった。むしろ、リラックスしていた。きっと長い間、音楽に飢えていたんだと思う_
_トリのバンドが前説を始めた頃、女が僕の隣の席にやって来た。「踊りに来たよ。」_ よく見ると昼間、別の場所で名刺の交換をした若い建築士の女の娘だった。僕が名前を云いかけたところで演奏が始まった。それと同時に、彼女は席から勢いよく立ち上がって踊り出した。仕方ないので僕も席を離れて彼女の側に付いた。「行きたいな、行きたいな、夢のアメリカ。大都会ー」_ 不思議な音楽だった。前衛音楽に聴こえたかと思えば、ベタベタの歌謡曲や地方の民謡にも聴こえる不思議なメロディだった。僕はすっかり彼らのファンになってしまった。隣で踊っている若い建築士の女の娘も、ここはディスコティックなのよと云わんばかりにフロアーで踊り狂っていた。
曲と曲の合間に僕は会場の雰囲気を携帯電話のカメラで撮ってSNSに投稿していたら、ディスコティックが画面を覗き込むようにして訊いてきた。「インスタグラムだ?」_ そうだよと答えたら、僕の手から携帯電話を引ったくるようにして画面を操作し始めた。それから検索結果から自分のアカウントを見つけ出して携帯電話を突き返してきた。圧倒されながらも僕はフォローボタンを押した。トリのバンドマンは次の曲が今夜の最後だと紹介した。僕はカウンター席に戻って飲み物の残りを飲み干すと、新しい煙草に火を付けながらディスコティックの後ろ姿を眺めていた。彼女は曲に合わせ腰を振ったり手を振り上げていたのに、息一つ切らしていなかった。全く、大したものだ_
_「ねえ、キミはどうしてそんなー」と云いかけたところで演奏が始まった。ディスコティックがこちらを振り返って「こちらにいらっしゃいよ。」と手招きした。煙草を灰皿に突っ込んでもみ消したあと、僕も彼女に側に立ってリズムに合わせ始めた。ディスコティックは満足そうにこちらに笑顔を見せたあと、音楽に合わせて自分の踊りに集中した。軽妙なステップを踏んだと思ったら、次は腰を横に振って僕に当ててきた。両手は顔の前に突き出され、激しく上下に揺れていた。僕は彼女の踊りを何か眩しいものでも見るみたいにいつまでも眺めつづけ暗闇の中でそっと微笑んだ。その間、バンドはさきほどの曲を唄い直した。「行きたいな、行きたいな、夢のアメリカ。大都会ー」_
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「堀川コンダクター」
「違う違う、前と一緒。もう一度、頭からね。」_ 暖簾をくぐり抜けて土間から家屋に上がったところで、聞き慣れた声が僕の耳に届いた。町家を改装したこの建物は現在、コワーキング・スペースとして貸し出しを行っている。声の主は、この建物の管理者で年中忙しそうに誰かに指示を出している。僕が建物中央の廊下を歩いて彼のいる居間を通り過ぎようとした時、片手を上げて悪いねという仕草をして、いまも誰かに向かって話しをしていた。「そうそう、その調子。でもまだ、もう一回。」_ 会話だけを聞いているとコンダクターがオーケストラに向かって根気よく “指導” しているようにも思える。わからないな、実際のところ彼の仕事の大半はタクトを揮うようなものなのかもしれない_
_廊下を突き当たって角を曲がり大きめの居間に入ると、ブンガクがすでに先に来ていて誰かと打ち合わせをしていた。僕は彼とは別の卓上に付いて腰を下ろした。そこには三人の若い男女が座っており熱心に会話を繰り広げていた、そのうち二人の男の子たちは見知った顔だった(と云っても滞在中に知り合ったばかりの間柄だ)。彼らは僕の顔を見ると会話を中断してこちらに顔を向けた。「ああ、よかった。ちょうど PANKICHI さんの話をしていたところなんですよ。」_ 僕に話しかけてきた男の子はシャッター・チャンスといって写真を撮っている人間で、ブンガクの話しによればまだ若いのに、いま京都界隈では引っ張りだこのカメラマンらしい。爪の垢でも煎じて飲んでおきたい。
「東京……じゃあなかった、出雲から絵描きさんが京都に来ているんだよって、彼女にちょうど話していたところなんです。」_ シャッター・チャンスの隣には別の男の子(彼の名前は書生ミニマリストという)が座っていて、彼の向かいの席には女の娘が座っていた。「こんにちは、お邪魔じゃないかな?」_ 僕は出来るだけ丁寧に、怪しまれないように挨拶をした(ただでさえ怪しい職業だから、平素は愛想を良くしている)。「全然、構わないわよ。それよりもアナタ、最近出来た『傷』って在るかしら?」_ 傷? 一体何のことを云っているんだろうこの娘は? それにしても、彼女の喋り方にはどことなくユニークな響きがあった。夏目漱石の小説作品に出てきそうな女性の喋り方に似ていた。
ちょうどその時、コンダクターが “指導” を終えて居間に入って来た。「いやいや、すまないすまない。えらいお待たせして。」_ 気にしなくていい、ここには見学で来ただけだからと僕は伝えた。彼は卓上には近寄らずに、居間の戸口に立ったままさきほどと同じ仕草で「これから契約書を交わしに行って来るんで、PANKICHI さんまた来週にでも来てゆっくり飲みましょう。」と云って、スタッフに言付けだけ残して出て行ってしまった。来週また京都に来るのは難しいけれど、彼の冗談の中には親しみが込められていた。僕はしばらくの間、戸口を眺めながら彼が新しい楽団と契約書を交わしているところを想像してみた。今度会った時にタクトをプレゼントしてみるのも面白いかもしれない。
[了]
<次回予告>
カフェ・バーで語らうカラフルな京都人たち、ライブハウスで踊り狂う女、神経質そうにタクトを揮う男_ 京都探訪で絵描き PANKICHI は魅力的で個性的な人物たちとめぐり逢ってゆく。その間、間奏曲のように “音楽” が辺りで流れつづける。そんな中、また新たな人物たちが彼の前に現れる。ベルト・モリゾにグリーン・ティー、シャッター・チャンスに書生ミニマリスト。そして最後に……。京都界隈の特異な人物たちが彩る群像劇、絵描き PANKICHI のワクワクをめぐる冒険、次回も乞うご期待!
次回「京都探訪♯1_ ドライビング・マイ・カー・イン・キョート(後篇)」_
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<前篇のための後日附記>
ここに綴られている物語は基本的にフィクションです、ここに描かれている登場人物たちは実在しているかもしれないし、実際は存在していないかもしれない。仮に彼らが存在すると仮定して見た目や年齢や素性など、パーソナルなデータを書き記すことがここでは目的ではありません。僕がこの物語の中で伝えたかったのは「そこ」で僕が実際に目にした光景や空気感です。それと「そこ」に流れていたかもしれない “音楽” です。ちなみに「三条ディスコティック」でちらっと出てくるバンドは本当に存在しています。“シライリゾートオーケストラ” といって実際にファンになりました(彼らのアルバムもその場で買った)。普段、僕はあまりライブハウスという場所に足を運ばないんだけれど_ライブハウスよりは美術館やギャラリーに足を運ぶことが多い_今回は友人を通じて素敵な “音楽” に触れる機会を作ってもらった。そのことに先ず僕は感謝したいと思う。
それから、今回の京都探訪ではおそらく40〜50人の人びとに会ったと思うんだけれど、お会いした全員の方々のことを描くには限界があったので、今回は登場人物の数を7〜8名に絞らせてもらいました。探訪中、長時間一緒にいたけれどこの物語の中には一切登場しない方や、逆に短時間しかお会いしていないのに(しかも大した会話もしていない)重要な登場人物として物語の中に出てくる方もいます。これは絵を描いている時もそうなんですが、『スケッチ』を描いていて全然意図していない対象が勝手に立ち上がってくることがあります。僕はそういう時、出来るだけ “流れ” に逆らわずに対象を掬う(救う)ようにしています。このあと更新する後篇を合わせて読んでいただいて、全体のバランスを掴んでいただければ僕が目にした光景や空気感を一緒に共有することが出来るかもしれません。まあ、つまりはそれが『物語』が持つ力なんだろうけれど。
小さな海辺の町のアトリエにて
PANKICHI